Tir na n-Og





 
連なる血筋の幕は開き

<序章 運命の申し子>



  夜空に、細く引っかいた月が転がっていた。
 冷たい風が絹を裂くかのような悲鳴を上げながら、乾いた空を翔ける。同時に、木の葉が既に落ちた枯れ木が揺れ、ざっと音をたてて軋んだ。
 女はその音に、手に持つ刺繍針を膝の上へと置き、ふと窓の外へと睫毛を向ける。
(不吉な風…)
 特別信心深いタチでもないが、こうして乾いた風が窓を叩くたびに心が揺れ動いた。いつものように杞憂だと、自身に言い聞かせようにも何故か今日は心がざわめく。
 我知らず、肩にかけていたショールを握り締めた。紺碧の瞳を伏せ、唇を噛み締める。けれど鼓膜を掠るのは甲高く鳴く風の声。
(あの日も)
 風が鳴いていた。
 最後に見た彼の姿は、だんだんと遠ざかる広く逞しい背中。
 生まれたばかりの幼い我が子を守るように抱きしめながら、けれど本当に守られていたのは自分自身だったと、女は胸中でそっと呟く。
(あの子を守ると)
 そう言い聞かせる事で、かろうじて地面に立ち続けていた十年に未だ届かない歳月。
 女は伏せた睫毛を持ち上げ、ふと二階へと続く階段を見た。そうしてこの強風の中、不安など何一つない顔をして眠っている我が子を思う。
 英雄の子として育てられ、周りからもそう崇められてきた。
 これから先、ずっとそうだろう。
 この大陸に住み、サーの称号を持つ騎士団長であった父の栄光が続く限り――。
(それはあの子にとって良い事なのかしら…)
 肩口からシュル、と音を立て流れ落ちたショールを手繰り、女は立ち上がった。ギシ、と乾いた音を古い椅子が床へと落とす。
 刺繍針を机へと置き、光の加減によっては黒曜石にも映る紺碧の瞳をすっと細めた。夫が旅立った頃に比べ、疲労の色を濃くした肌へと影が落ちる。ショールを持つ手は震え、女は指先がひどく冷たい事に今更気づいた。
(何故)
 今夜はこんなに心が乱れるのだろう。
 闇の中にひっそりと浮かぶ傷のような月のせいだろうか。空を走る禍つ風のせいだろうか。
(――それとも)
 その瞬間、視界の端にふと光を感じ、女は光の先へと視線を滑らせる。先ほどまで暗闇を映していた窓が、今は炎の色で照らされていた。
 同時に、コンコンと呼び具が扉を叩く音が、室内に響き渡る。
「ウェルズ夫人にアリアハン王国第十三代国王トナードル・デル・マイズ・ド・アリアハン陛下よりの火急の使者である」
 扉の向こうからやや掠れた声が届いた。しかしその声音はとても夜分遅くに来訪したとはとても思えないような、遠慮のない非常識なもので、それは同時にその用向きそのものが非常識――非日常である事を告げていた。それに気づいた女は僅かに眉を顰める。
 彼女はショールを握る手に知らず力を入れながら、玄関へと足音を転がした。相変わらず窓の外では風が鳴き、窓を叩く音が響いているというのに、何故かこつこつという己の靴音が床へと落される大きさが気になる。
 震える指先をドアノブへとやると、金属独特のひやりとした感触が伝わった。その冷たさに一瞬体が強張り、喉の奥がやけに乾く。 ドクンドクンと響く己の心臓の音が何よりも煩わしく思えた。
 女がドアノブを回すと、僅かな抵抗と乾いた甲高い音とともに扉が開かれる。同時に冷たい風が僅かな隙間から室内へと入り込んだ。
 彼女の黒髪が、肩口を舞う。
「何事です?」
 そう言って、 ドアの向こうから風と共に現れた自国の兵士の顔に張り付く感情を見た瞬間、女の喉が凍りついた。ほんの少し前に、言の葉を発した事が嘘のように時が止まる。
「な…にか、あったのですか?」
 あの人に。
 カラカラに渇いた喉から捻り出された声音は、とても自分のものだとは女には思えなかった。
 王宮の兵士が持つ松明の動きに合わせるように、ドクン、ドクンと先ほどよりも大きな心音が体内で響く。目の前で揺ら揺らと燃える炎が、何故か女の心をざわめかせた。
 息の仕方すら忘れる。
 今、自分が立っているのか座っているのか。
 どうやって世界に存在していたかすら忘れてしまう程、心が冷えた。
「サー・オルテガ・ウェルズ夫人…アイリス・ウェルズ殿」
 言いながら、兵士はざっと国王からの書状を女の眼前へと広げた。
「七年前、前国王ライズマッカ・ハイル・ラル・ド・アリアハン陛下より魔王討伐への勅許が下されたオルテガ・ウェルズの死亡が、本日判明致しました事を、ここに報告するものである」
 恐らく、王宮にて一流の訓練を受けた兵士なのだろう。
 一度もよどむ事なく、流れるかのような声音。言の葉に宿る旋律は、ただただ義務的なものだった。
 女――アイリスと呼ばれた元宮廷女官だった彼女は、一瞬その滑らかな声音に、内容を理解出来ず睫毛を冷たい空気に羽ばたかせた。
 けれど、その直後兵士の顔に宿っている感情を認め、無意識のうちに胸元で抑えていたショールを手放す。冷たい風に煽られ、バサリと音を立てながら室内へとショールが舞った。
「……あ……」
 乾いた唇から僅かに声が漏れる。兵士はアイリスのその声に、表情に宿った感情をくしゃりと歪めた。
「真実、なのです」
 そして、先ほどの義務的な声音が嘘のように震えた声でそう告げる。
(あの日の)
 あの後姿が最後だと、心のどこかで思っていた。
 夫が旅立ってから、無事を祈りつつ、けれどどこかでその覚悟をしていたはずだ。
(でも――)
 わかっていなかった。
 本当に失う日が来るなど。
(思って、いなかった)
 彼女の身体の軸がふらっと揺れる。黒髪が宙を舞いながら、女の身体は糸の切れた人形のように、音もなく地面へ落ちた。
「ウェルズ夫人!?」
 ガチャ、という独特の金属音を音をたて眼前の兵はアイリスへと視線を合わせた。
 けれど、彼女の視線からの返事はない。
 男の不安を感じたかのように、ボゥっと松明の光が風を受け、さらに大きく煽られる。
「ウェルズ夫人!」
「おかあ、さん?」
 男がもう一度声を荒げると同時に、幼い声が冷えた部屋に響いた。
 アイリスはその声に、肩越しに振り返る。
 女の睫毛の先には、漆黒の髪と、強い光を放つ黒曜石を思わせる瞳を持つ少年がいた。年の頃は十に満たない程。
 この大陸を統べる王国の騎士団長を知る者なら誰しもが知っている、今となっては忘れ形見となってしまった少年。
「アーク…?」
 母と呼ばれた女は、力なく掠れた声音で少年に答えた。
 幼い頃から、この子は手がかからない子だったと、アイリスはふと思う。
 サーの称号を受け、王国騎士団長として魔王討伐を命じられた名誉ある家柄。
 特に生活の面では不自由はなかった。
 けれど、年若い女にとって夫の不在、しかも明日をも知れぬ運命が課せられた夫を待つ生活は、人々の想像以上に彼女を苦しめていたはずだ。
(だからかしら)
 夫が旅立つ半年前に生まれた我が子は、彼女の手を煩わせる事がない子だった。
 ――否。
 彼女の心を読んだかのように、彼女が苦しい時には手をかけない子だった。
 夜泣きなど、恐らく一度もした事がないのではないか。
 夜には寝、朝には起きる。
 そんな当たり前すぎるけれど、一番難しい「平穏」を常に与えていてくれた子だった。
(なのに)
 常ならば、決して朝まで起きる事のない我が子が、何故目覚めたのか。
(まるで)
 それが彼の運命だとでもいうように――。
 アイリスは近くまで寄ってきた我が子を抱き寄せると、抑えていた感情をそのまま涙として溢れさせた。
 夫の運命に。
 そしてその運命の結果、我が子に待っている宿命に。
「どうして…!」
「おかあさん…?どうしたの…?」
 偉大な父を持った事に未だ自覚がない幼い少年は、常ならば見る事のない母の涙に困惑する。抱きしめられているのは自分だと言うのに、何故か母が自分よりも幼い子供のように感じた。
 目の前には金属音を纏う兵。その手には風を受け、小さく大きく形を色を変える松明の光。
 アークと呼ばれた少年は、母の肩越しにそれらを見つめながら、母が何故涙を流しているのかを頭ではないどこかで漠然と理解した。
 だから――。
「おかあさん、なかないで」
 少年は小さな手のひらを母の黒髪へやり、優しく撫でる。
 かつて、自身が母から、祖父からされてきたように。
(なかないで)
 ずっといっしょにいるから。
(ぼくは)
 きえたり、しないから。
 我が子の幼い手のひらの感触と、背中越しに感じる王宮の兵の視線を受け、アイリスは唇を噛み締めた。けれど頬を伝う涙は一向に止まらない。紺碧の瞳から、幾筋も雫が零れた。
 禍つ風が運んできた夫の死と、傷口のような月から現れた我が子の運命に、彼女の涙は止まらない。その大切な命がやがて夫と同じ宿命を辿る事に恐怖を覚えながら、女はただただ我が子を抱きしめ嗚咽した。


 運命が決められたものでないのなら。
 運命が自分で選び掴み取っていくものなのだとしたら。
(どうか)
 この子の運命が、優しく明るいものでありますように――。
(あの人と)
 同じ宿命を辿る事が運命だとしても、同じ結末を迎えないように。
 女は祈る。
 震える心を癒すように、小さな身体を抱きしめながら。
 けれど禍つ風に荒された空には、爪で引っかいたかのような細い月が転がるばかり。
 夜の帳へと落した涙と祈りを、そのまま掻き消してしまうかのように、ただ風だけが高い声で鳴いていた。






 

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